第2回 卵と牛肉

 卵は怖い、ということは日本にいる時から知っていたがドイツで暮らしていると怖さは現実味を帯びてくる。今日も新聞に「ミュンヘンの老人ホームでサルモネラ中毒のため十五人が死亡」という記事が載っていた。時々このような「卵殺人事件」が起きるのだ。子供の誕生日に作ったシュークリームにあたって、救急車で病院に運ばれ、一週間入院したという日本人の家族もある。中途半端に熱を通したオムレツなんかも危ないのだそうだ。こんな話を散々聞かされると、いっそ卵は食べないことにしようとも思うが、そういう訳にもいかない。「卵はね、新鮮なものを買うこと。市場で買うのよ。そして火をしっかり通すことね。」と友達が教えてくれた。

 フランクフルトの中心街、ツァイル通りの近くにクライネマルクトハレという公設市場がある。クライネは小さい、マルトは市、ハレはホールという意味だ。クライネとはいうものの、建物は大きな体育館のよう。その中に肉、魚、野菜、チーズ、香辛料など、いろいろな食材が並んでいて、卵屋さんもあった。ここならきっと大丈夫だろう。値段はLサイズが1個30ペニヒ(1マルクは100ペニヒ)、バラ売りなので何個でも買うことができる。10個で3マルク(約180円)だ。えーと、何て言えばいいんだろう。卵はドイツ語でアイ、複数形はアイアー。10はツェン、それに日本で買い物をする時に使う「お願いしまーす。」というニュアンスのビッテという言葉を付けて、「ツェンアイアー、ビッテ!」 必要最小限の実践ドイツ語買い物講座でした。

 私の前に並んで卵を買っていた人が、コインを一枚ずつゆっくりとテーブルの上に並べている。お店のおばさんも一向に気にする様子もなく、気長にお金がそろうのを待っている。日本だったら後ろで並んでいる人が絶対いらつくところだ。誠にドイツの人は気が長い。何事につけ、「早く、早く」とせかせないのがドイツ流だ。

 そうだ、私もここでコインを使おう。買い物をする時、なぜか焦ってお札をだしてしまう。ドイツのお金に慣れていないせいか、ゆっくりと金額通リに揃えるゆとりがない。その結果財布はとても太ってしまった。ドイツのコインはとても重いのだ。これ以降、卵を買うたびにコインは減って、財布は見事にダイエットに成功したのだった。

 卵を料理するときは、十分に加熱することを心掛けた。茹で卵は十五分以上ゆでてカチンカチン、タマゴ焼きも親の敵であったように、これでもか、これでもかと焼いた。フワッとしたオムレツも、とろとろの卵丼もしばらくはお別れだ。

 牛肉も要注意の食べ物だ。そう、狂牛病がヨーロッパを震撼させていた。知り合いのドイツ人は「牛肉を食べてはいけない。」と厳しい口調で忠告する。真剣な表情から事態の深刻さをうかがうことができた。確かにデパートやスーパーで牛肉をみかけることはなかった。ただし、クライネマルトにはあった。

 なん軒ものお肉屋さんが並んでいて、塊の肉を売っている。さすがに肉とワインとビールの国!お肉屋さんは迫力あるなぁと眺めているとその中の一軒に目が止まった。おお、懐かしい日本の文字、「すき焼き用薄切り」と書いてあるではないか。この店は日本人向けに牛肉の薄切りを売っていた。おそらく安全な国から輸入したものだろう。土曜日の午前中、この店は日本人の行列ができる。大繁盛だ。客の少ない隣の肉屋の主人は「なぜ日本人は薄く切った肉を食べるのか?肉の旨味は厚さにあるのに。」とでもいいたげに、やっかみ半分行列を眺めている。行列の店はお父さんとお母さんと若い息子さんの三人でやっている。息子さんは背が高く、ブロンドの髪でハンサム、とても感じのよい青年だ。店のすいている時に私が豚肉のヒレやひき肉を買うと、「日本人なのに、すき焼きは食べないのか?」などと笑顔で話しかけてきた。

 土曜日になると、彼の笑顔は真剣な表情に変わる。大きな牛肉の塊を機械に掛けて薄切りにするのは若い彼の仕事だったのだ。カウンター越しにのぞくと、機械は日本の肉屋さんが使う新型ではない。さぞ力がいることだろう。一人ずつ注文を聞いてからスライスしている。日本のように、あらかじめたくさんスライスしておけばいいのに、と思うのだが、そうしないところがいかにもドイツらしい。売れ残る無駄をとっても嫌うのである。意図的に行列を作って宣伝に利用するということではない。

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